「サウンド・オブ・ノイズ」

soundofnoise

突如街に現れた謎の6人組。彼らはあらゆるものを楽器に見立て、とんでもない場所で音楽を作り上げる音楽テロリストだった!彼らを追うのは、有名音楽一家に生まれながらも、音痴で音楽嫌いの警官、アマデウス。街中に貼り出された4つのテロ予告。アマデウスは、ある事件の現場に取り残されたメトロノームを手掛かりに捜査を開始するが・・・。果たして、彼らの目的とは?そして、アマデウスはテロを阻止できるのか?

シネマテークたかさきで上映されていたので観てきたのですが……ずいぶんと罪作りな映画でした。少々ネタバレがあるので、嫌な人はここから先は見ないでください。

 
 
多分、この映画に興味を持つタイプの人が、あらすじやトレーラーを見たときに予想するストーリとはだいぶ違った作品です。
いわゆる「サウンドテロ」的な行為を描いた映画というは過去いくつかあり多くの場合主人公たちが奏でる音楽が、抑圧された”ある層(クラスタ)”を代表しサウンドテロを行う集団がクラスタの代弁者として描かれるのが基本となります。
たとえば、「今夜はトーク・ハード」という映画では、厳格な高校に通う優等生の主人公が夜な夜な違法電波を使って謎のDJとして海賊放送を行い、彼がかける音楽がやがて抑圧された若者たちの象徴のようになっていきます。違法行為でありながら、抑圧されたクラスタからの支持を得ていく過程が描かれることで、視聴者もその行為に共感しエンディングに向かうにつれボルテージが上りカタルシスが生まれることになるわけです。

しかし、「サウンド・オブ・ノイズ」では、その支持を得ていく過程のようなものが全く描かれません。
映画の中に、この奇妙なサウンドテロ集団に共感する人達がまったく存在しないのです。
その結果どうなるか? 視聴者の目には彼らが「はた迷惑な自称アーティスト集団」にしか映りません。
しかも、彼らの演奏自体もラストに向かって尻窄みになります。
この作品のなかで彼らは計4回の「演奏」を行うわけですが、回を重ねるごとに魅力の感じられないものになっていきます。
第三楽章の演奏などかなりグダグダで、見てる側からすると「やっぱり重機で演奏するって無理ありすぎじゃね?」と感じさせれられます。
しかも、映画の中では彼らの音楽や行為に共感したり熱狂する人達の描画が一切ないわけで、そうなるとホント自己陶酔した勘違い集団のようにしか見えず、しかもラストの「演奏」に至ってはやってることのスケールが大きいわりには奏でる音楽はしょぼく、さらにそれをちゃんと聞いている観客も描かれず、高圧電線にぶらさがりながらさほど魅力的とも感じられない音楽を奏でるそのシュールな絵に見ている側は困惑しきりです。

で、問題なのは、これらがおそらくはすべて意図された演出だということです。

つまり、この映画の中で描かれるサウンドテロは、単なる「迷惑行為」としてあえて演出されているようなのです。

ラスト近くで、音痴で音楽嫌いの警官アマデウスが行う”ある行為”も、全ての演奏を終えたサウンドテロ集団のしょっぱい結末も全て意図通りで、この映画が出す結論は極論言ってしまえば「音楽の敗北」です。

まぁ、そういった意味ではタイトルは正しくこの映画を表しているわけですが。

上記のあらすじやトレーラーを見て予想されるシナリオとある意味正反対の結末でカタルシスのようなものもまったくありません。

全編にあふれるドラムやパーカッションの音や、規則正しく刻まれるメトロノームのリズムは心地よいのですが、それだけにラストに近づくにつれ「えぇ、その方向に向かうの!」と視聴者は裏切られることになります。それも、あまり心地いい裏切りではありません。

クールでスタイリッシュで奇妙な後味を残し、ある意味音楽に対して批評的で魅力的な作品ではあるんですが、単純明快なエンターテイメントを期待してしまっていたのでちょっとモヤっとしたものが残りました。

冒頭、車の後部座席にドラムを乗せ、ドラムを叩きながらかっ飛ばすシーンはメトロノームの刻むリズムとエンジン音が重なって最高に格好良くて好きなんですけどね。